駅探訪、今回の舞台は有楽町です。
東京駅に近い有数の歓楽街で飲み屋なども多い印象ですが、、
私はずっと気になっていました。
「有楽町ってほぼ東京じゃねーか!」と。
「東京駅の近くにこの小さな駅を作る必要があるのか。」と。
ただ、これは私自身が京葉線ユーザーだから感じるだけで、純粋に東京駅中央口(丸の内でも八重洲でも)などから考えるとそこそこ距離ありますし(と言っても信号3つ分くらいですが・・・)駅が設置されるのも頷けます笑
・・・ということは京葉線ホームから別の線のホームまで信号3つ分くらいあるってことですよね笑
同じ駅なのに・・・遠っ!!笑
有楽町は東京有数の繁華街で大手町、丸の内、有楽町の頭文字をとって
大丸有
なんて言われているそうですよ!
(でも個人的には近くの日比谷の方がなんか有名だしカッコよくて好きです笑)
(日比谷焼打事件のせいですかね笑)
有楽町の由来は織田有楽斎(織田信長の弟)と言われていますが、どうやら意見の対立があるようです。
織田有楽斎はその名前からもわかる通り俗人ではなく(本名は長益)、戦国武将でありながら茶人としての方がよく知られているような人物です。
対立意見としては
・関ヶ原の戦いで家康に加勢したとは言え、その頃には既に出家しており家康とは距離を取ろうとしていたため家康に住居を与えられても住まなかっただろう。
・晩年には京都に住んでいたという記録がある。
などと、なかなか論理的と思える反論があります汗
ではどちらが正しいのか。
私は反論の方が正しいと推測します。
織田有楽斎は関ヶ原では東軍についたとはいえ、織田⇨豊臣と仕えてきた人物なので、関ヶ原後に起きた大坂の陣のことを考えると、上方にいた可能性が高いと考えます。
京で没したのもそれが理由ではないかと思います。
では、なぜ有楽斎の名前が町名になっているのか。
これは江戸の町の構造が関係しているように思えます。
江戸時代当時は大名屋敷が並ぶ御門内と町人街の御門外が数寄屋橋によって隔てられていました。
地図の数寄屋橋門跡というあたりですね。
門内、門外の門は数寄屋橋門のことなんですね。
(そう考えると築地にあのような市ができたことも頷けますね笑)
そして当時のこの辺りには茶人達が多く住んでいたようです。
当時、茶の湯は大名達に大人気でしたし、茶道具を持っていることがステータスのような部分もありましたので茶人のステータスが上がる=門内の近いところに住めるのも特別不思議ではありませんね。
で、江戸の町人のことですから
「織田有楽斎って知ってる?」
が変化して
「織田有楽斎がこの辺に住んでたらしいよ」
みたいな感じで有楽町になったのではないでしょうか笑
・・・ちょっと無理やりすぎますね笑
この辺はまだ調査中ということで笑