皆さん、こんばんは。penguin911です。
今回は、標題のことについてお話ししようと思います。
急に理系っぽくない話が登場しましたね(笑)
「神学」。これは神について勉強する学問です。
題材はキリスト教であることが多いですね。
私は学生時代、神学に興味を持ったんです。
というのも、
「世界史の出来事で、例えばニケーア公会議やカノッサの屈辱など、歴史は宗教と深い結びつきがあるな。」
「待てよ。学生時代(高校)、世界史は苦手だったけど、宗教の観点から見ると意外と面白いんじゃないか?」
と思ったからです。
で、個人的にはこれが大当たり。
キリスト教を知ることで、世界史の面白さがガラリと変わりました。
具体的な話は別の機会に回すとして・・・
今回は英語と神学の関連性についてお話ししたいと思います。
突然ですが、昔、英語が「悪魔の言語」と呼ばれていたのを知っていますか?
これはですね、キリスト教の陰謀(という言葉はあまり好みませんが)です。
ちなみに、日本語も「悪魔の言語」と言われていたそうですよ。
これを言ったのは、フランシスコ・ザビエルです。
ね?察しがつくでしょ?
キリスト教は自分たちと異なった文化や言語に対して、「悪魔」や「異端」などの言葉をつける習性があるようなんですね。
なぜかというと、キリスト教の求心力を保つためです。
これに関しては面白い記述がありまして、、
この本の中に宗教が成立する理由が書かれておりました。
(この本に関しては改めてレビューします。面白いですよ。)
著者によれば、
「人間は本能的に大規模に協力するようにはできていなかったが、人類の発展のため、それを可能にする必要があり、その手段が宗教だった。」
「宗教は信じる者がいてこそ成立する。」
一言一句正確ではないですが、概略です。
つまりです。キリスト教の信者がうっかり別の宗教を信じてしまったら、キリスト教の力が衰えてしまうわけです。
そうならないために、キリスト教は自らと違うモノに対して、必死に「悪魔」等のネガティブなワードをつけるという、小学生のようなことをしなければならなかったわけです。
じゃあ、なんでその言語に英語が選ばれたの?という話ですが、
はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神であった
ここからわかる通り、言葉というのは神のように崇められていた存在だったわけです。
で、当時のキリスト教の一大勢力はカトリックであり、その本拠地はイタリア(というかバチカン)だったわけです。
ところが、そこに英語という、ゲルマン系言語とラテン系言語を使いやすくカスタマイズした言語が現れてしまうわけです。
いうなれば、ガラケーを使っていて、「ガラケーこそ正義」なんて言っていたところにスマホが現れてしまったみたいな、そんな感じです(笑)
つまり、英語という分かりやすく使いやすい言語が現れてしまい、このままだと英語ユーザーが増えてしまうことを危惧したカトリックが英語を悪魔の言語として認定したんですね。
(その努力もむなしく、国際的な公用語になってしまいましたが・・・。)
このように、歴史とキリスト教はかなり密接に結びついています。
そのような観点で歴史を見直すと、今まで釈然としなかったモノが見えてくるかもしれません。
では、また、本紹介でお会いしましょう。
今後ともよろしくお願い致しまする♪